安藤昌益の実像


中山敏則





 安藤昌益は江戸時代中期の医者・思想家だ。武士が農民を支配する封建社会をきびしく批判した。そして、万人平等の立場ですべての人間が「直耕(ちょっこう)」(農耕)に従事するという「自然の世」(原始共産制社会)を提唱した。当時としては画期的で独創的な思想である。しかし昌益の思想には致命的な欠陥がある──。


闘争を否定

 致命的な欠陥というのは、社会の歴史的発展法則を理解できなかったことだ。社会発展の推進力は階級闘争である。自由や平等も、闘争なしには勝ちとれない。
 イェーリングはいう。
    《権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対抗しなければならないかぎり──世界が滅びるまでその必要はなくならないのだが──権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。世界中のすべての権利=法は闘いとられたものである。》(イェーリング『権利のための闘争』岩波文庫)
 これは真理である。じっさいに、日本の封建制度(幕藩体制)も倒幕運動によって崩壊した。倒幕の背景には百姓一揆の頻発もあった。
    《(明治維新は)前後1年半にわたる全国的な大内乱の流血によって、はじめてその基礎ができた。鳥羽・伏見から函館までの戦争で、政府軍の出征兵士約12万人、その戦死3556人、負傷3804人、幕府・諸藩がわの戦死者で、わかっている数は4707人、そのうちには会津藩士の妻や娘194人をふくんでいる。負傷者数1518人。(中略)それだけの血を流してはじめて、旧幕府勢力は早期に決定的に打倒され、人民の封建制からの解放と日本民族の政治的・国家的統一および日本が欧米の半植民地化される危険から脱出する第一歩がふみだされた。歴史をここまで推進してきた深部の力は、当時の用語でいえば「天下万民」=民衆にあった。》(井上清『日本の歴史(20) 明治維新』中公文庫)
 だが、安藤昌益は百姓一揆などを否定した。闘争をぬきにして平等社会の実現を夢想した。
 昌益についてこんな指摘がある。
    《彼ほど人間の平等についての徹底した認識を示し、あらゆる封建的なものの批判を徹底的に行ったものはない。それならばどうして人間の平等と搾取と支配のない「自然世」ないしその過渡期の社会を実現するか。百姓はその奪われたる平等の人権と土地を恢復(かいふく)するためにみずから立ち上って革命を行わねばならない、人間には専制と搾取に反抗しその体制を顛覆(てんぷく)する革命権がある、いまや人々はそれを行使しなければならない、と昌益が言ったならば、彼はヨーロッパやアメリカの近代民主革命のいかなる理論家にもまさるともおとらぬ革命的民主主義の理論家たりえたであろう。だが昌益はそういうことは一言も言わなかった。それどころか彼は「平和」の名において封建領主間の戦争と同様に人民の革命闘争をも否認した。》(井上清『井上清史論集2 自由民権』岩波現代文庫)

    《昌益は、支配階級やその擁護者たちに対して、徹底的にこれを攻撃した。まるで舌端火を吹くかと思われるほどの激しさであった。しかしながら昌益は、ジョン=ボールや、トーマス=ミュンツァーのように百姓一揆の先頭に立つことはしなかった。「我道には争なし、我は全きを語らず、吾は戦はず」というかれの信条がそれをさせなかったのであろうか。》(奈良本辰也『日本の歴史(17) 町人の実力』中公文庫)
 昌益は封建制度(幕藩体制)をきびしく批判した。しかし弾圧をおそれ、自分が書いたものをかくした。藩や幕府の役人の目にふれないようにするためである。
    《徳川時代の、あのきびしい身分制度、また言論・思想断圧(だんあつ)の下で、この本の内容は、そのままでは一かけらなりとも世の中に知られてはならないものだった》(奈良本辰也「〔解説〕安藤昌益と統道真伝」、安藤昌益『統道真伝(下)』岩波文庫)
 そのため、昌益も、彼の弟子・門人たちも、だれひとりとして処罰されなかった。昌益の著作が発見されたのは明治になってからである。
 この点で昌益と対照的なのは竹内式部と藤井右門である。二人は反幕府思想を公然ととなえたために処罰された。
    《越後の医者の子に生れた神道家の竹内式部は、天皇の延臣たちに、反幕的な立場で、天皇の政治的任務を講義して、1758年(宝暦8)、幕府のために処罰せられた(宝磨事件)。ついで、1767年(明和4)、式部と交際のあった、甲府の医者出身の山県大弐とその同志で浪人の藤井右門らは、天皇を頭とする統一日本をうちたて、封建領主の収奪と特権商人・高利貸資本の搾取を制限する政治を実現しようと望んだ。大弐は、民衆の反抗がわきたぎっている現在、英雄が正義をとなえて民衆を煽動すれば、幕府を倒すのは暴風雨がうつろの大木を倒すように容易であろうと、その公開の書『柳子新論』に書いている。彼らがそのための行動計画をもっていたかどうかは、明らかでないが、大弐と右門は1767年(明和4)、死刑にせられ、竹内式部も関係ありとして、八丈島に流され、途中で死んだ(明和事件)。後の勤王倒幕運動に通ずる体制変革の思想が、歴史の水平線上に隠見しはじめた。》(井上清『日本の歴史(中)』岩波新書)
 昌益は封建制度を徹底的に批判したが、封建制度を打破する行動はしなかった。原始共産制社会の復活を夢想しただけである。そのため、じっさいの倒幕(幕藩体制の打倒)にはなんの影響もおよぼさなかった。
 昌益の思想や行動を現在にあてはめればこうなる。原発や戦争や搾取のない理想社会をえがく。しかし、反原発運動や、反戦運動、悪政とたたかう運動などは否認する。自身もいっさい行動しない。自然の大切さを説くが、自然保護運動は否定する。読書やもの書きを否定するが、自分はそれをつづける──。昌益はそういう人物である。


昌益の思想をポル・ポトが実行

 昌益は貨幣を否定した。音楽や囲碁などのすべての娯楽を否認した。書物を読んだり文字を書いたりすることも否定した。ようするに、朝から晩まで農耕をやれ、それ以外のことはするな、ととなえた。これは、人間を牛や馬のようにあつかうものである。人間も無知蒙昧がいい、とした。
 そうした昌益の思想を実行した人物がいる。カンボジアのポル・ポトである。
 ポル・ポトは「農本共産主義」を実現するため、すべての都市住民を農村に強制移住させた。貨幣(通貨)制度を廃止した。芸術や娯楽を禁止した。読み書きも禁止した。
    《ポル・ポトは、私有財産や貨幣制度を廃止し、さらに首都プノンペンなどの大都市の住民を、ひとり残らず地方の農村へ強制移住させた。原始共産制にもとづく農耕社会こそユートピアだと、本気で信じていたポル・ポトにとって、金銭、工業製品、それらに囲まれた都市生活は、堕落の象徴だったからだ。移住に際しても、工業製品たる自動車を使うことは、許されなかった。徒歩で移動を強いられた人々のうち、体力のない者が少なからず途中で脱落して死亡したが、それも彼の理想の前では、些細(ささい)な犠牲に過ぎなかった。農村でも、快適な近代住宅やトラクターなどの機械は破壊された。人々は粗末な掘っ立て小屋に住み、手作業で重労働に従事させられた。だが、農作業に不慣れな人間を原始的な方法で働かせれば、生産性がガタ落ちするのは当然だろう。しかも、ただでさえ農村人口は急増している。食料の減産は致命的であった。やがて各地で飢饉が発生し、人々は過労と飢餓で倒れた。不衛生な住環境も病気の温床となった。前述したインテリ粛清のしっぺ返しが、ここで発現する。病人が出ても医者がいない。適切な治療を受けられず、人々はただ死んでいくばかり。》(グループSKIT『世界の「独裁国家」がよくわかる本』PHP文庫)

    《(ポル・ポト)政権のほとんどの期間を通じ、新人民が都市でなじんでいた文化や風俗、習慣はどれもご法度で、彼らはすべてを完全に忘れ去って牛馬のように働かなければ、生命を失うことになった。英語やフランス語をちょっとでも口にしてスパイに聞かれ、処刑されたという新人民は少なくない。伝統的な祭り、75年4月以前に都市で人気のあった流行歌や踊り、遊びなどもすべて「敵」となった。》(山田寛『ポル・ポト〈革命〉史』講談社選書メチエ)

    《民主カンプチアには、刑務所もなければ、裁判所も、大学も、高校も、貨幣も、郵便局も、本も、スポーツも、気晴らしもなかった……。1日24時間のうち、無為の時間は少しも許されなかった。毎日の生活は次のように分けられていた。肉体労働が12時間、食事が2時間、休息と教育が3時間、睡眠7時間。われわれは巨大な強制収容所にいた。》(ステファヌ・クルトワ+ジャン=ルイ・マルゴラン『共産主義黒書〈アジア篇〉』ちくま学芸文庫)


インテリや商人を憎悪し、学問・遊芸を否定

 昌益はインテリや商人を憎悪している。読み書きや学問をする者は処罰すべきとも書いている。
    《文字や書物、学問は、耕さずに貪食し、天道・天下・国家を盗むことの根源である。第一にこれを停止し、学者の徒輩には土地を与えて耕作させる。もし土地を受け取らずに遊芸をこととするときには、その一族は当人を捕えてこれに食を絶たせなくてはならない。》(安藤昌益「自然真営道」、『日本の名著(19) 安藤昌益』中公バックス)

    《商人は諸物を売買するやからである。諸物の売買を天下の通用としたこともまた、これを制度として立てた聖人の大罪である。》(安藤昌益「統道真伝」、同上)
 寺尾五郎氏は、昌益研究者のなかで質・量とも最大の存在のひとりとされている。寺尾氏は昌益についてこう記す。
    《商・工の改造よりも、はるかに手きびしいものが知識階級の改造である。工は「相応ニ」改造し、商は「速カニ」停止であるが、無用傲慢のインテリにたいしては「第一ニコレヲ停止ス」と、最大の鉄槌が下される。(中略)インテリは飢えに苦しませろ、そうでもしなければ、この厚かましくずるがしこい文化人などというものは、けっしてなおるものではないといっているようだ。昌益は士・商にたいするより以上のきびしさでインテリを叩く。つまり昌益は敵にたいするよりも、自己の出身層にたいしていっそう苛酷であり、自己否定的である。(中略)昌益は肉体労働に対立し特権化した精神労働なるものを軽侮し憎悪し、その上品ぶった鼻づらをとって特権の場からひきずりおろし、生産活動・肉体労働の場にたたきこんで改造しようとしているのだ。このような発想も日本思想史上に昌益をもってはじめとし、かつ唯一とするものではなかろうか。》(寺尾五郎『安藤昌益の闘い』農山漁村文化協会)
 ポル・ポトも、インテリや商人の存在を認めなかった。そして、少しでも学識のありそうな者はかたっぱしから殺害した。
    《頭のいい者は殺された。生かしておいたのは、指導者が言った通りにする者ばかり。》(井上恭介『なぜ同胞を殺したのか─ポル・ポト 堕ちたユートピア』NHK出版)

    《ポル・ポトがまっさきに断行したのは、シハヌーク支持者、ロン・ノル支持者の、徹底的な粛清だった。次いで、教師や医師など、高等教育を受けた者、すなわちインテリも粛清対象となった。自身がそうだっただけに、ポル・ポトはインテリが反体制運動の指導者となりやすいことを知っていた。だから自分が体制の側に立つなり、彼らを根絶やしにし、将来の禍根を断とうとしたのだ。結果、国内の教育水準は大幅に低下し、教育や医療の現場は壊滅、各分野の専門家は激減する。》(グループSKIT『世界の「独裁国家」がよくわかる本』PHP文庫)
 ポル・ポトがめざしたのは、農業を基本とした原始共産制社会である。それを実現するため、都市住民を農村に強制移住させて食糧増産に従事させた。それにしたがわない者や抵抗しそうな者は根こそぎ殺害した。文明の利器を一掃したため、国民は農作業や灌漑施設の建設などの重労働をすべて手作業でおこなうという過酷な労働環境を強いられた。その結果、多くの国民が飢餓、栄養失調、過労によって死んだ。ポル・ポト政権下で粛清・虐殺や飢餓、栄養失調、過労によって死んだ人は、国民の4分の1にあたる170万人とされている。
 ポル・ポト政権は、安藤昌益がとなえた思想を強制的に実行した。そして悲惨な結果をもたらして破綻した。当然である。


実現不可能な願望

 正真正銘の革命思想家は、昌益がとなえたようなユートビア思想を「現在も将来もけっして実現できないような願望」としてきびしく批判した。
    《あらゆる社会的変化と政治的変革との究極の原因は、人間の頭のなかに、永遠の真理や正義についての人間の洞察がますます深まってゆくということに求めるべきではなく、生産および交換の様式の変化に求めなけれはならない。それは、その時代の哲学にではなく、経済に求められなければならない。(中略)これらの手段は、けっして頭のなかから考えだすべきものではなくて、頭をつかって、眼前にある生産の物質的諸事実のうちに発見しなければならない》(エンゲルス「空想から科学への社会主義の発展」、『マルクス=エンゲルス全集』第19巻、大月書店)

    《ユートピアというのは、存在しない場所のことであり、幻想、架空のこと、おとぎ話である。政治におけるユートピアは、現在も将来もけっして実現できないような願望であり、社会的勢力に立脚しない願望、政治的、階級的勢力の成長と発展によって裏づけられない願望である。一国で自由がすくなければすくないほど、公然たる階級闘争の現れが乏しければ乏しいほど、また大衆の啓蒙の程度が低ければ低いほど、通常、政治的ユートピアはそれだけ発生しやすく、またそれだけ長つづきする。》(レーニン「二つのユートピア」、『レーニン全集』第18巻、大月書店)
 同感である。

(2019年7月)




青森県八戸市にある安藤昌益資料館。昌益に関する資料を豊富に収集展示している






このページの頭に戻ります
前ページに戻ります

[トップページ]  [全国自然保護連合とは]  [加盟団体一覧]  [報告・主張]  [リンク]  [決議・意見書]  [出版物]  [自然通信]