日光の自然を守り続けて43年


日光の自然を守る会に聞く






 「日光の自然を守る会」は結成43周年を迎えた。会の高村文夫代表、横田隆副代表、山下正和事務局長にこれまでの活動などを聞いた。

 原生林、道路、スーパー林道、ゴルフ場建設…


 「守る会」は1970年6月6日に結成された。きっかけは、奥日光の原生林伐採である。営林署による原生林伐採を中止させるため、広範な県民運動を盛り上げようと結成された。
 結成直後の6月27日、デモ行進をおこなった。参加者は180人。「日光の原生林を切るな」「日光の自然を守ろう」などを訴えながら、宇都宮市の中心部を練り歩いた。
 以来、日光バイパス(日光宇都宮道路=日光道)や奥鬼怒スーパー林道、ゴルフ場建設などに反対する運動を活発に進めてきた。
     「日光バイパスは建設されたものの、神(しん)橋(きよう)(東照宮の手前にある赤い橋)や東京大学付属植物園日光分園の近くなど2カ所をトンネルにさせた」
     「奥鬼怒スーパー林道は、ルートを変更させ、観光道路としての利用は認めないという成果を勝ち取った。奥鬼怒スーパー林道の栃木県側は、奥鬼怒温泉郷の入り口(女夫淵温泉)までしかマイカーの乗り入れができない。人気の奥鬼怒四湯(加仁湯、八丁の湯、日光沢温泉、手白澤温泉)に行くには、そこから歩くか、宿の送迎バスを使うしか方法がない」
 これらは「守る会」が中心となった運動の成果である。

 ピーク時の会員数は1000人


 「守る会」の会員は、ピーク時には1000人近くいた。1980年から環境庁長官(現在の環境大臣)を2年つとめた鯨(くじら)岡(おか)兵(ひよう)輔(すけ)氏も「守る会」に入会していたそうである。これには驚いた。それほど「守る会」は大きな影響力をもっていたということである。
 ところが当時と比べると、いまは会員数が大幅に減少した。なぜか。
     「結成から何十年とたち、会員の高齢化が進んだ。そのため、活動に参加できる会員が少なくなった。亡くなった人も少なくない。それに最近は、私たちがとりくむべき環境問題が日光市内では起きていない」
     「さらに、若者をとりまく状況が一変したことも大きい。若者は就職先を確保するのに汲(きゆう)々(きゆう)としている。就職できても、非正規雇用が多い。労働強化や慢性残業にあえいでいて、ゆとりをもてない状況になっている。土曜・日曜の自然観察会などに参加するという気力はなかなか起きない。土日出勤も常態化している。それは、どこも同じだと思う」
 これには「う〜ん」とうなってしまった。「どこも同じ」というのはそのとおりである。
 1970年5月、宇都宮大学の学生約60人が「宇大日光の自然を守る会」を立ち上げた。これが、翌月の「日光の自然を守る会」結成に大きな役割を果たした。
 たとえば「千葉の干潟を守る会」が1971年3月に結成されたときも、東邦大学の学生17人が中心的役割を担った。しかしいまは、そんな状況はどこの大学もみられない。隔世の感がある。
(聞き手・中山敏則、2013年9月)






「日光の原生林を守れ」「日光の自然を守ろう」などのプラカードを
掲げながら宇都宮市内をデモ行進=1970年6月27日、栃木新聞提供





日光の自然を守る会の会報『大自然』










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