3・11から5年後の福島


田原廣美








きっかけは影法師コンサート

 「花は咲けども春を喜ぶ人はなし。毒を吐き出す土の上。うらめしくやしと花は散る。……」
 原発事故後の福島を歌った「影法師」。3月5日、この農村バンドを私が川越市(埼玉県)に呼んだのがきっかけだった。
 なんと、このコンサートに福島県南相馬市から駆けつけた女性がいた。それが大井千加子さんだった。
 私たちスタッフは大感激だった。大井さんを強引に泊まらせ、その夜おおいに飲み語った。大井さんは「福島を忘れない人が大勢いた」と、とても喜んでくれた。翌日帰り際に大井さんは言った。「私のふるさとへみんなで必ず来てください」


津波のすさまじさを実感

   (2016年)6月1日、私は全国自然保護連合の中山さんと福島に発った。福島駅で合流し、大井さんの運転で現地に向かった。川俣町を抜け、飯舘村の飯樋小学校前で車を止めて空間線量を測ると0.412μSv(マイクロシーベルト)だった。しかし、近くの木立の中で測ると2μSvを超えた。
 そのあと、南相馬市ICから常磐自動車道を走った。最初0.084μSvだった線量は徐々に上昇した。双葉町を通過するとき、路傍のモニタリングはなんと4.1μSvを表示していた。年間線量で36mSv(ミリシーベルト)になる。帰還困難区域の走行がしばらくつづいた。大井さんによると、田畑も家もそのまま放置されているという。
 広野ICで常磐道を降り、行きとは逆に一般道の国道6号線を南相馬市に向かって走った。大熊町や双葉町の路傍では、つぎの立て看板が目立った。「この先帰還困難区域、自動二輪車・原動機付き自転車・軽車両・歩行者は通行できません」
 枝道はすべてバリケードで封鎖されていた。空間線量が2〜3μSvの所もあるのだから無理もない。大井さんは、立ち入り禁止を回避して「夜ノ森の桜通り」を見せてくれた。ふと影法師の「花は咲けども」の歌が思い浮かんだ。
 最後に、津波の被害がきわめて大きかった浪江町請戸地区に向かった。5年たっても、現場は津波のすさまじさを物語っていた。一階部分を津波が突き抜け柱だけが残った家、門の一部しか残っていない建物、……。そして、辛うじて残った土台のセメントの上にひっそりと花が手向けてあった。さらに行くと、アスファルトの道路が津波により押し動かされ、黄色いセンターラインが2m近くずれていた。津波のエネルギーの巨大さを思い知らされた。
 この日は、大井さん推薦の地元の居酒屋で共に飲み、「コモドイン南相馬」という仮設風のホテルに泊まった。


津波被害に追いうちをかけた原発事故

 翌日2日は南相馬市役所で待ち合わせ、大井さんの職場だった介護老人保健施設「ヨッシーランド」を訪れた。そこはすでに更地となっていた。遠くに塩枯れした数十本の木立が見えるだけだった。
 大井さんは、ここで利用者の方々を避難させている最中にいきなり大津波に襲われた。36人の利用者が犠牲になった。大井さん自身も九死に一生を得た。
 しかし介護長をしていた大井さんの地獄はここからはじまった。泥に埋まった利用者の救出、辛うじて助かった利用者の避難……。
 それに追いうちをかけたのが福島第一原発事故だった。物資の流通が止まり、食べ物も薬もオムツもないなかで、5日間も高放射線にさらされながら利用者を一人で引率したあと、やっと福島市の特別養護老人ホーム「なごみの郷」にたどり着いた。
 その後、大井さんはさまざまな心の後遺症に苦しんだ。4時間以内に目覚める日が1年以上つづいた。約2カ月間は当時の夢を見る、突然涙が止まらなくなる、震災に関する文字・映像・言葉などでも心身が過敏に反応する……。


原発事故という犯罪の大きさ

 大井さんがつぎに案内してくれたのは、鹿島の「奇跡の一本松」だった。松の高さの倍に相当する20mの津波に襲われたが生き残ったという。しかし5年経ち、松は枯れかけていた。
 そのあと、54名もの犠牲者をだした南相馬市鹿島区の野球場に向かった。安全な場所だと信じて集まっていた所を、突然大津波が襲った。慰霊の碑に刻まれた名前が痛々しかった。
 最後に、大井さんの故郷である南相馬市小高区を訪ねた。途中の田んぼに汚染土を詰め込んだ黒い袋が延々と置いてあるのが見えた。小高区には1km以上に及ぶ巨大な置き場が作られているという。政府は自らの地区に置き場をつくらない限り除染はしないのだという。ひどい話だと思う。
 大井さんの実家は大きな立派な家だった。除染作業によって、家の周囲は線量が低くなっていた。しかし、大井さんがホットスポットだという集水枡の上に線量計を置いて驚いた。線量がぐんぐん上がった。あっというまに9.999μSvになり、計測不能となった。
 小高区の居住制限は7月12日に解除されるという。だが、ほんとうに安心して住めるのだろうか? 国は年間被ばく量を勝手に1mSvから20mSvに引き上げて帰還してもよいと言っているのだ。
 大井さんは、解除になったら小高の自宅に戻り、介護施設を建てて自ら運営するという。信念と覚悟を持った人だと思った。
 大井さんは、すぐ近くのお墓のある小高い丘に連れていってくれた。眼前の黒い袋の山を見ながら懐かしむように言った。
 「そこは私の家の田んぼがあった所です。秋は、黄色く色づいた稲穂と畦に咲いた彼岸花をわざわざ撮りに来るカメラマンもいたんですよ」
 地震と津波だけだったら、原発事故さえなかったら、家族みんなで安心して故郷に住みつづけられたはずだ。私は改めて、故郷を奪い家族を散り散りにした原発事故という犯罪の大きさを思った。
(2016年6月)







津波によって押し動かされたアスファルト道路。
センターラインが2m近くずれている=浪江町請戸地区













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